昭和40年11月30日 夜の御理解  ●


 人間の、幸せというものは天地の親神様のご信用を頂かなければ人間の、真実幸せは許されない。天地の親神様の総てのこと、その事だけではない総てのことにご信用を頂けれるもの、信心をさせて頂かなければ、また、そういう道を教祖の神様はご自分が頂きになり、そして私共に伝えておって下さる。
 ですから、例えばあの、天地の親神様のご信用を受けておる人、信心はなかってもです、天地が感応ましますような、おかげを受けて折る人がありますよね、やはり神の徳を受けておる人が。物の徳を受けておる人がある、健康の徳を受けておる人もある。それは、信心があってものうてもやはり、その、神様のご信用、神様の特別のご守護を受けておるわけである。
 ですから、んー、人徳なんかもそうである。信心はなかっても大変、人徳の篤い方がある。けれども、神徳というのはそうではない。やはり、信心をしなければ頂けれない。

 今日は私、善導寺の総代会がその渕上先生のところでありました。私今日、午後からあちらにまいりましたのですけれども、渕上先生が、もういつもそれを話されるのですけれども、今日もしみじみ話されるんですね。
 あちらのお婆ちゃん99歳になられる。もう、十二月と少しで100歳になられるですね。ね。先日から、99歳になられた、お祝いをされたそうでございます。それがその、本当に母の事を言うとおかしいですけれども、おかげを頂かんなら、(?)というておられるですね。ね。ぜんぜん不平がない。若いときから。不足が無い。それは本当に、あれこれに恵まれた生活をして来たそうではない、また、体が強かったかというと、若い時にはちょいちょいその休んだりしよりましたけれども、おかげを頂いてから、成程99、100年間まで御生かしを頂かれるまでのです、母は備えておられますちいうてから話しておられましたですね。ね。

 近所に70くらいのお婆さん達がおって、寒かけん寝込んでおるような人たちもおると、日に一遍(?)そうです。近所。そうすると、またあっちのおばちゃん、その近所のお年よりの方達がもうあそこには悔やみ話しの持って行き所だそうです。ね。ところがあちらのお婆ちゃんはもうこれこそ、絶対悔やまれないそうですね。これは若い時から。ね、いわゆる、不平不足と言うものがないそうです。
 それは実にその素直というですかね、例えばあの、あそこの御祈念が済んでから、あそこで、皆で座っておられる、んで、あちらの奥さんが「おばちゃん」ち手招きしよりなさいよる。そしたら、「はい」ちいうてから、立っていかれる、そして、その自分は嫁さんとしてはね、もう年寄りだから、あそこにおられるよりも自分の部屋が一部屋作ってござりますもん、そこが、皆もよかろというのでですね、呼ばれるんですよね、おばあちゃん、手招き、「なん」ちいうてから、それがね、なんとも言えんその、一時が万事ああだろうと思うんです。
 そしてまだ、(?)。それはやっぱ99ですから、去年参りましときより今年という風にやはり、(?)終わっておりますけれども、もう本当に100歳を悠々として越されるだろうと私は思うのですね。
 

 もうこの頃から、ただそのタバコが大変お好きだそうです。それに、たばこを飲みなさらんそうです。だからあの、んー「あら、タバコはきれとったの」ち言うたら、まあ、2,3日切れとるちいうてから、もうそれがもう淡々としておられる。もうなかけん買うてくれち言う事を言われた事がないそうです。ね。だからもう本当にもう家内悲しみましたち。もう本当にばあちゃんタバコどん忘れてくれるなち言うておられました。忘れられん。一事が万事そうです。もうそしたらもう、もうその、足袋いっちょ、カバー一つでもそのチャンチャンコ一つもです、もう何か頂いたらその喜ばれる事喜ばれる事がですね、それが、今始まった事ちゃない、昔からそうだそうです。だから、それだけでも成程、天地の徳をいわゆる、天地の親神様の健康の徳を許されておられるはずだというてから、今日、お話を聞いたりさせて頂いた事でしたけれどもね。
 どうでしょうか?お互い本当に信心させて頂きよるけれども、おかげ頂かんはずじゃんというものがあるでしょうが。不平を言う、不足を言う。信心を、本当に「この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせぬ」と仰るのにも関わらず、喜びが足らん。不平を言う、不足を言う。ね。人に求めるという事をされるとこう言うのですね。
 だから、私共はただ、それだけの健康の徳を受けるというだけが幸せというわけでもないですから、ね、例えば今申しますように、神徳・人徳・健康の徳ね、金の徳、物の徳とというように、五つの徳を本当に受けなければ人間の幸せはないと仰られます。ね、ですから、本当にお互い信心をさせて頂いてね、いわゆる、五徳です。ね。火鉢の中に五徳をこう差し込む、熱い中にこう差し込まれても、じーと辛抱しておるという、どんなに例えばもう何十年間辞めなされんタバコでもです、なかからというてから、その、(?)与えられるものを黙ってまっておられる。そこに、不平不足と言う物がないようなですかね、いわゆる、そういう一つの辛抱というものが、その、五徳を頂いていくもとになるんだとこう私は思うです。
 そこで私共は、渕上のお婆ちゃんじゃないですけれども、そんな、性分を頂いておらんもんですから、不平があり不足はあり、ね、喜びが足りない、そこでその、喜びを頂かせて頂くための道付けをして頂く。ね。とても神徳人徳を頂かせて頂けれるような、信心の稽古をお互いさせて頂くわけでございます。

●ただ今、永瀬さんの奥さんが御祈念前に御届けされるんです。先生今朝から御夢を頂きました。先生(?)、その御夢でございますけれども、ここで御信者さん方やみんな一緒に先生もご一緒に鬼ごっこをしているところ。先生が鬼になってからこうその捕まえようとなさるのだけれども、どこに隠れておるか分からんもんじゃからずっと私の隠れておる前をその素通りしていきよりなさる。そして永瀬さんの奥さんが思われることにですね、もう、本当に捕まえられ、らっしゃらええがとこういうている、もう私小便まるごとしてたまらんち思いよったとこであったそうです(笑)。ね。小便に行きたいから捕まえられる方が楽なんです。実は。ね。 そんなら、捕まえられたいなら出てくらいいじゃけん、出てこん。やっぱ隠れておる。(?)先生ということは私は神様という事でもあろうかと思います。ね。
 もう本当にもういよいよ苦しゅうなって、もう、待てんち言うごとならな出てこん。ね。お互いがです、成程捕まえられると言う事はです、まあ窮屈に感じるかも分かりません。ね、けれども、また、自分が鬼にならせて頂けれる事が有り難い。という事はその悪になるという意味じゃないですよね。自分自身がです、誰がわるかの、かれがわるかのと思うておったけれども、そうじゃなかった、自分自身が鬼でじゃった、自分自身が悪かったと分からせてもらえるから有り難いのです。捕まえられたら。ね、どんな例えば難儀な問題があってもだから不平不足をいわんですむのです。あれが悪かっちゃなかった、この人がどうじゃなかった。問題は私が悪かった。私が鬼じゃったというその捕まえられることによってその自覚が出来るから有り難い。
 
 だからこそ、例えば私が申しますように今、例えば、健康の徳だけではない、五徳を受けさせて頂くような辛抱もまた、出来るわけなんです。ね。私はその今日渕上のお婆ちゃんのお話を聞かせてもらい、実際に私の事を椛目の先生椛目の先生と言われるんです。私は(?)側におったもんですから、椛目の先生の側の方がよかのち言うてから、まあいうなら、何ていうんでしょうかね、信者さんならばこういうでしょうね、やっぱお徳を頂いておる人の側のほうがよかちいうごたる風な意味で私(?)こまいですから、ころころと入ってきなさるです。
 本当にこうこう頭を撫でてあげたいごたる感じのするお婆ちゃんですけれども、もう小さいお婆ちゃんです。もう本当に生き仏さんのような感じでございますね。成程99までもああして、健康のおかげを頂いているのに、みんなに愛されておられると言う事。ね。それをあの、ある(?)いいよなさいました。「もう本当にもう、やっぱ私がはよ死なないかんかの」ち言うてなさいますが、もうその、若えもん(?)誰もせん。もう本当にもう(?)大事にせんごとなっちから、あのその話されますもんね。
 でその、おばあちゃんは耳が遠かけん分かりゃせんけれどもね、その、本当に若い者からでも愛されんものを持っておるからいけんのですよ、例えば99やらのお婆さんが皆から、愛されておられるという事です。家内にその申し上げる「お婆ちゃん、タバコどん切らせてくれるなち」ね、と嫁さんもとってもいい嫁さんです。ね。それには本当に、本当に無いて言ってすぐに立ち上がれる私は素直さというものがね、素晴らしいんですよ。ね。これは信心を金光さまの信心はおありになりません。渕上先生達夫婦だけの信心ですからね。けれども、もう、そのああいうあり方で、本当にあの、信心を金光大神様のお取次ぎを頂いて信心の稽古をなさっておったら、それこそ、五徳を受けられただろうというように、思うんですね。

 これはしかし信心をしなければ頂けないのですもんね。神徳・人徳ね、一切のその、人間真実幸せになる為の幸せ。だからそういうチャンスを私共恵まれるんですけれどもです、ね、やはりその、苦しくても自分が出てきて捕まえられる、もう捕まえられたらもう最後、その、とても、困ろうち、金光さま先生どんならな大事ちいう感じ方もあるのです。そういう事の中にですね。
 ですから、赤裸々になってその、取り組んでくれないといったような人も沢山、そして、一生を苦しんで終わると言う人もありましょう。ね。どうでも一つ、お互いがこの小便に行きとうてこたえんと言う事はお互いが、もっておる小さい願いの事でしょう。ね。ですから、これが本当の意味合いで、大便なんかでも、辛抱する事は出来ません。ね、本当に大変な難儀、いわゆる大便的なその物でも自分で感じるならです、潔く神様に捕まえられる事をね、一つ願いとして、信心を進められたらお徳を受けられるのではないかとこう思うのですね。
                                       どうぞ